こんにちは.研究開発部の鈴本 (@_meltingrabbit) です.
クックパッドの研究開発部 では,「毎日の料理を楽しみにする」というミッションを実現するために,様々な野心的なチャレンジをしています.一方で,我々研究開発部のメンバーには,自分のもてる技術を用いて,部署内外の課題を発見し,解決するという使命もあるのです.
今回はクックパッドの生鮮 EC プラットフォームサービスであるクックパッドマートで食品流通のために展開している冷蔵庫の温度管理についてご紹介します.クックパッドマートで使用されてる冷蔵庫は,サービスの安定稼働のため,次のように工学的知見と実際の観測データに基づき運用されています.
マートステーションに設置されている冷蔵庫の課題
クックパッドマートでは,ユーザーの皆さまが食品を受け取る場所をマートステーションと呼んでおり,そこには下図のような冷蔵庫が設置されています.
そして,この冷蔵庫の冷却設定は,「より安全側になるように,少し強めに冷却する」というような設定で運用しています.しかしながら,冷蔵庫というハードウェアを実環境に展開している以上,どうしても目標の温度に対して多少上がりすぎてしまったり,冷えすぎてしまったりするという課題がありました.
クックパッドマートでは,すべての冷蔵庫に温度計を設置し,リアルタイムで庫内温度をモニタリングしています.それによって,社内規定の温度ポリシーを逸脱し食品が危険にさらされた場合や,葉物野菜等が低温障害によって品質が損なわれた場合に,直ちに適切な対応がとれるようになっています.
冷蔵庫の温度設定を見直すことで,弊社にとっては返品ロスの削減,ユーザーの皆さまにとっては注文した商品が高い品質で届くというサービスクオリティの向上が図れるのではないか,という考えに至りました.ただし,「温度設定を見直し,場合によっては設定温度を上げる」という施策は,心理的ハードルが高く,なかなか実行に踏み切れていませんでした.
冷蔵庫の温度をより適切にするには?
最適化したい対象が目の前にあるとき,まず最初にしなければならないことは,対象の正しい理解です.
はじめに,使用している冷蔵庫を “理想環境” で稼働させたときの特性を見てみます.理想環境とは,外乱の少なく,安定した,想定した環境,さらには,製造誤差なども無視できる状況下,つまり冷蔵庫でいえば,外気温・湿度が一定でかつ,その他の外的要因がない環境,です.
この下図が,その時の温度グラフです.一番上の紫線が室温(恒温槽)の気温で,下方の3線が3台の冷蔵庫の庫内温度です.冷蔵庫は基本的には,「庫内がある温度を超えたら冷却ON,ある温度を下回ったら冷却OFF」というように2状態で制御されています(いわゆるバンバン制御,ないしはオンオフ制御). つまり,
- 庫内温度が上昇し,ある基準温度を上回ったら冷却を開始.
- 冷却に伴い庫内温度が下降.ある別の基準温度を下回ったら冷却を停止.
- 停止に伴い庫内温度が上昇.(以下繰り返し)
というような挙動を示します.このようにして,ここでは庫内温度がおよそ0〜4度に制御されています*1.
理想環境での挙動がわかったら,今度は “実環境” でどうなるか,です.ソフトウェアでも,デプロイしてみたら,想定外の時間に想定以上のアクセスがあった,とか,想定外のデータが飛んできた,とかありますよね.ハードウェアを実世界に展開したときでももちろん,似たような想定外や外的要因が発生するものです.
次の画像が(故障や異常な冷蔵庫を除いて)無作為に抽出したある冷蔵庫 60台の温度ログです.ハードウェアを扱う以上,現実世界は理想状態からは程遠く,そこまで単純ではありません.
ひと目見ただけでも,次のようなことが理想環境下とは異なることがわかります *2.
- グラフの形状が異なる(理想環境ではきれいな一次遅れ系だが,実環境では異なる).
- 振幅が異なる(理想環境では0〜4度の4度ほどだが,実環境では3度以下のものもちらほら).
- 実現される温度帯がばらついている(理想環境では0〜4度の範囲に入るとされているが,ステーション実測では個体ごとにばらつき,全体として-2〜6度の範囲に).
1, 2は,理想環境下では無負荷(庫内が空)で気流がきれいに流れている一方,実環境下の冷蔵庫では庫内に食品が入っているため,空気の循環が異なることなどが原因として考えられます.3は製造公差,環境外乱などが原因でしょう.この冷蔵庫の温度制御回路はアナログ回路です.つまり回路定数などに誤差が発生しますし,冷風の温度計測にもバイアスがのります.また,冷蔵庫はコンビニの店内といった空調の効いた環境からマンションのエントランスといった半屋外など,環境の異なる場所に設置されています.そういったことを考慮に入れると,このばらつきも納得できます.
さらに,庫内というのは実は3次元的な空間であり,大きさを持っています.つまり,冷蔵庫上段奥と,冷蔵庫下段手前では,その温度は異なります.実際にたくさんの計測機器を冷蔵庫に設置し,実験を繰り返すことで,このような庫内温度分布といった特性を理解していき,そしてその特性が食品に与える影響を考えていくのです.
本記事では詳細は省略しますが,理想環境では食品をおおむね0〜4度(2±2度)で保存できると思いきや,実環境では,
- 庫内温度のバンバン制御により±2度
- 公差,外乱などにより±2度
- 庫内温度分布などの影響により±1.5度
などの誤差が累積し,同じ型番の冷蔵庫を展開したとしても,食品が体感する可能性がある温度帯はレアケースも含め-3.5〜7.5度(2±5.5度)に分布すると推定されました.
工学的知見と観測データに基づく解析から,エビデンスをもって施策決定を行う
さて,本題です.
工学的知見と実験等によるデータから,マートステーションで使われている冷蔵庫の実環境における特性を理解することができました.あとは,多数の実環境データを用いた統計的解析により,冷蔵庫の最適な温度設定を探っていきます.
はじめに,運が悪く最悪ケース級の外れ値を引き当ててしまった冷蔵庫や,そもそも不具合を抱えている冷蔵庫といった,社内規定である温度ポリシーを違反しうる可能性の高い冷蔵庫を洗い出します.
冒頭でお見せしたように,冷蔵庫の温度はバンバン制御しており,周期的に上昇と下降を繰り返しています.さらに扉の開閉などによっても温度は変化します.このように,瞬時的な温度ですべての異常を検知するのは困難であるため,以下のような可視化と解析を行いました.
- 扉の開閉やその他の影響が少ないと思われる,深夜0時~早朝6時までのデータを収集
- 周期的に振動する時系列データから,外れ値などの影響を取り除くため,下図赤線のような上側温度と下側温度を求める(算出方法の詳細は割愛)
- 下側温度を横軸,上側温度を縦軸にとった散布図を描く
結果は下図(見やすさのため極端な外れ値は除いてます)の紫点のようになります,赤枠は,これまでにわかっている冷蔵庫の特性と解析方法から予想される温度域(を大雑把に直線で描画したもの)で,概ねそこに収まっていることがわかります.
一方で,この赤枠からおおきく外れているものは何かがおかしく,詳細に見ていくと,
- マートステーションが稼働する前のデータの混入
- 冷蔵庫本体の故障
- 半ドアや施工ミス(冷蔵庫の設定ミスや,そもそもの設置方法のミス)などの冷蔵庫が不適切な状態
- データ欠損などのデータが不完全によるもの
- その他(いろいろな誤差が悪い方へ重なり範囲を逸脱したもの.どうしてもハードウェアは外れ値を出すものはある.)
に分類でき,最初のスクリーニングとしては十分な威力を発揮してくれました.
このようにして検出された潜在的に温度ポリシー違反となりうる可能性の高い冷蔵庫は順次是正していくことにします.そうすると,「庫内の設定温度を少し上げても,食品の危険性はそこまで増加せず,むしろ低温障害などの影響が低減できる」ということがわかってきました.また,管理コストの問題から,冷えすぎている冷蔵庫のみではなく,展開しているすべての冷蔵庫の温度設定を一括で変更したいと考えました.一方で,冒頭に記したとおり,安全側に寄せるために強めにしている冷却を弱める,というのは心理的ハードルがつきまといます.
この心理的ハードルを乗り越えるために,「庫内の温度の設定値を上げること」がどの程度効果があり,そして現実的に可能であることを検証していきます.そのためには実験あるのみです.数十台の冷蔵庫の温度設定を変更した時のデータを取得し,解析します.そうして得られた工学的知見に基づくエビデンスをもとに,「マートステーションの冷蔵庫の設定温度を一括で上げること」,「温度設定の変更は,冷却モードを1段引き下げるのが最適であること」を提案しました.
提案文章内のエビデンスの概要は,だいたい次のようなものを用意しました.
- 左図が冷蔵庫の温度が低い時間帯の温度(下側温度)分布
- 青色で示した箇所が,今回の施策で氷点下を脱する可能性が十分ある冷蔵庫
- 赤色で示した箇所が,今回の施策で氷点下を脱することができない見込みの冷蔵庫.とはいえ,これは下側温度であり,常に氷点下に陥っているわけではないことに注意すること.
- 右図が冷蔵庫の温度が高い時間帯の温度(上側温度)分布
- 青色で示した箇所が,今回の施策で一時的にでも10度を超えうる冷蔵庫だが,そもそもここに現れているのは何らかの異常を抱えているものであるので(サービスでの利用が停止されている),強く意識する必要はない(別の方法で是正していくべきもの)
- 平均温度は全体的に0.5~1.0度ほど上昇するが,幸運なことに上側温度に対して下側温度の方が温度上昇幅が大きいことが事前実験の解析から予想される
- したがってリスクは小さい
- 冷却モードを1段(およそ1度程度)引き下げるのが,ちょうどよい
- 1段ではまだまだ冷えすぎてしまう冷蔵庫もあるが,全体分布としては1段が最適
- 今回救えなかったものは,個別に適当な処置を施すのがよい
こうして社内の合意形成を得た施策を実施した結果は,ほぼぼぼ予想通りでした. このようにして,様々な検討事項に対してエビデンスを示し,施策提案を行うことで,クックパッドマートのサービスクオリティを向上させることができました.
終わりに
このように,クックパッドでは,しっかりと事前解析を行いエビデンスを示すことで,生鮮食品流通といった場でも,重要な施策の意思決定が実現されています.そのエビデンスの裏では,工学的な知見や実験データ,運用データに基づく解析が行われています.ここでは紹介しきれませんでしたが,クックパッドマートではサービスクオリティを向上させるために,下図のような実際の食品をつかった実験や,実際に冷蔵庫を恒温槽で動作させ,様々なデータを取得する実験等も行っています.こういったデータを収集することで,工学的・物理的な現象理解がすすみ,適切な運用ができるようになると考えています.